2009年 12月 07日
おしゃべりしナイト。
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友人がプレゼンするからと誘って貰い、久し振りにPecha Kucha Nightへと遊びに行ってみました。その盛況振りには非常に驚かされましたが、分野も様々にバラエティー溢れるプレゼンター、とても面白く有意義な時間を得る事が出来ました。(ペチャクチャナイト:20枚のスライドを見せる事ができ、各イメージについて20秒間だけ説明することが出来る。20×20=400秒約7分間が持ち時間。クライン・ダイサム・アーキテクツが主催し、今や、世界300都市でこのイベントは行われ日々拡大している。)
そこでは、スターも異端児も関係ない、同じ土俵、同じ持ち時間。英国・ハイドパークパークの「スピーカーズ・コーナー」のように、誰もが自分の持論を自由にぶちまけることが許されています。
友人Jared Braiterman氏は、外交関係評議会(米国の超党派のシンクタンク、政策決定などに大きな影響力を持つ)のメンバーであり、昨年より日本に拠点を置かれている。日立や東京農業大学の研究員としての顔も持つ。彼の視野は広い。
今回の彼のプレゼンは、Tokyo Green Space/東京の小さな緑と題し、都会の中で、緑地をどのように感じ、育み、楽しんでいけるのか、あらゆる角度から可能性を探っていこうとするモノであった。これだけの国際社会になって、外人も日本人もないが、やはり我々が普通にやり過ごしていることに目が止まるようだ。アイロニーなユーモアと温かい楽観的な視線が、コンニチの東京を伐る。
英語と日本語を織り交ぜて話す。Jared氏
盆栽など小さな鉢に大きな自然を見るような姿勢は分かり易い凡例だが、空間スケールを頭の中で変幻自在に調整してしまえるのは、私達の一つの特性なのだと思う。盆栽の背景に余り見たくない光景が広がっていても、私達は認識の過程で修正し見て見ぬ事が出来る。
駅のトイレ内のペットボトルに無造作にいけられた植物。決して美しいものではない。トイレという不衛生な場所へのお仕着せの気配りで、エコなリサイクルと本物の植物:実に場しのぎ的な対応だ。設置者と利用者の意識の違いには、見て・見えないの関係が成立している。
日本人は緑に飢えている。脅迫観念を持っていると言っても良い。国民一人当たりの緑地面積などのデータと聞けば、誰もが数値は低いに決まっていると思っているのではないでしょうか。(正確なデータは調べていません)そこで私達が描く緑地とは里山の風景や山岳地帯などの、都会では消失したモノとして捉えている。近所の小さな公園の緑は、植樹されたモノで歴史も浅いからか、トイレの緑と同じ見て見えぬ存在でしかない。それらの合計総面積は、以外と侮れないのに、、。
歩道脇に、近隣住民が植えたと思われるパンジーなどを見て(見なかった)事は、決して少なくない。もう少しどっしりと時間の単位を長く捉え、樹種の選定、周辺との対話、目的の共有化を図っていけると、こうした試みは大きく成長していけるように思う。
明治神宮の森は、実はその殆どが1920年頃に全国から寄せられた奉献木で、恐らく植後10年で十分過ぎるほどの森林感を漂わせていたと想像出来る。
スケールは違えど、場しのぎ的な考えからチョットだけ時間の単位を長くするだけでも、結果は大きく異なる筈です。
そんな事を感じ始めている人が増えていると感じます。
住宅や植裁のプランニングをするときにも、
個人のスケールから都市スケールまで自由に行き来できる視点を持っていたい。
場しのぎの典型。工事用仮囲いにフェイクな自然はいりません。最近は、アートを取り入れた面白い試みも増えていますが、、。鋼板本来の地のままを素直に使う方が、より自然な風合いを発するように思います。
日本人は自然が大好き!癒しを求めます(笑)。とJared氏。忘年会シーズン真っ只中、このイメージをどのように解釈するか。
ちなみに今回の最年少プレゼンターは、Kaden Cowan君 11歳。テーマも、素材も、構図も、何を表現してみたかったのか明確にしながら、絵を言葉に置き換えて説明する。驚嘆しました。
そこでは、スターも異端児も関係ない、同じ土俵、同じ持ち時間。英国・ハイドパークパークの「スピーカーズ・コーナー」のように、誰もが自分の持論を自由にぶちまけることが許されています。
友人Jared Braiterman氏は、外交関係評議会(米国の超党派のシンクタンク、政策決定などに大きな影響力を持つ)のメンバーであり、昨年より日本に拠点を置かれている。日立や東京農業大学の研究員としての顔も持つ。彼の視野は広い。
今回の彼のプレゼンは、Tokyo Green Space/東京の小さな緑と題し、都会の中で、緑地をどのように感じ、育み、楽しんでいけるのか、あらゆる角度から可能性を探っていこうとするモノであった。これだけの国際社会になって、外人も日本人もないが、やはり我々が普通にやり過ごしていることに目が止まるようだ。アイロニーなユーモアと温かい楽観的な視線が、コンニチの東京を伐る。
盆栽など小さな鉢に大きな自然を見るような姿勢は分かり易い凡例だが、空間スケールを頭の中で変幻自在に調整してしまえるのは、私達の一つの特性なのだと思う。盆栽の背景に余り見たくない光景が広がっていても、私達は認識の過程で修正し見て見ぬ事が出来る。
日本人は緑に飢えている。脅迫観念を持っていると言っても良い。国民一人当たりの緑地面積などのデータと聞けば、誰もが数値は低いに決まっていると思っているのではないでしょうか。(正確なデータは調べていません)そこで私達が描く緑地とは里山の風景や山岳地帯などの、都会では消失したモノとして捉えている。近所の小さな公園の緑は、植樹されたモノで歴史も浅いからか、トイレの緑と同じ見て見えぬ存在でしかない。それらの合計総面積は、以外と侮れないのに、、。
明治神宮の森は、実はその殆どが1920年頃に全国から寄せられた奉献木で、恐らく植後10年で十分過ぎるほどの森林感を漂わせていたと想像出来る。
スケールは違えど、場しのぎ的な考えからチョットだけ時間の単位を長くするだけでも、結果は大きく異なる筈です。
そんな事を感じ始めている人が増えていると感じます。
住宅や植裁のプランニングをするときにも、
個人のスケールから都市スケールまで自由に行き来できる視点を持っていたい。
by swerve
| 2009-12-07 15:53
| イベント